2008年11月25日

荒削りのスプーン



2本ほどまたスプーンが荒削りの段階まできたので写真を撮ってみました。
なんとなくスプーンの形になってきているのがお分かりでしょうか?
削りだされたスプーンに添えてあるのは元の原型を想わせる欠片たちです。
いつか同じ長屋の熊さんが私の作った木匙をみて「木頃のなかまたち」ってぇのはどうだい?なんていってくれましたが、私は今でもそう呼ばれるのが好きです。で、私は熊さんに返しました。熊さん、そしたら「森想木頃」っていうのはどう?「木の頃を知って森想う」っていうのかな?
おっいいねー、おめぇもちっとは気が利いてるじゃねぇか・・・(ほとんど親父ギャグですが・・・) <<2005年愛知万博頃のお話

実は私のプロフィールに使ってある画像の写真は私の最初につくった作品です。木匙はそれから何本も作ってきたのだけれど恥ずかしながら未だにそれよりいいものが作れた事がないと思ってます。^^;
木匙作りは私の恩人がいつも忙しくなるとそれを紛らわすかのように作っていたのを横目で見てて不思議に思っていたんだけれど、その時はまさか自分がそれにとりつかれるとは思っていなかった。彼が亡くなった後、彼が好んで使っていた木(栗の木)と同じものが事務所の軒先に転がっていたのを見て割ってみたのがきっかけだった。最初、新調した鉈を使って割ろうと試みたが、どう力を入れてもなかなか割れず思い余って小口に鋸を添えて切り始めたりもした。栗は杉と同様木目が素直で割りやすい材の代表なんですけど、それすら知らず10センチほどの丸太を前にして途方にくれたことが懐かしい。その後、詳しい人に相談したら小斧と木槌でいとも簡単に綺麗に割り放ってくれました。
これでも庭師の端くれ(口だけの庭師ですが・・・^^;)、森に行けばある程度「この木何の木?」に「気になる木だよ」と答えられる自信があっただけに、木のもつ内面の奥深さを思い知った気がしました。

私の木匙の作り方なのですが、実はそういうわけできっかけを作ってくれた恩人の作り方をろくすっぽ見ていなかったせいもあって完全に我流です。でもまぁそれでいいとも思ってます。出会った木を活かして、あとは使う人のための用を成すことができればまずはそれで良しだと思っています。私の心の師匠がいつか言ってた「今、森が荒れているんじゃない。人と森の関係性が荒れているんだ。」という言葉、それを木ともっともっと関わることで取り戻せれたらと思っています。なので無手勝流の私の木匙作りですが最初の作品から変わっていない事があって、最初、作るときに一度思い切って木を割ってやります。そうすると木が自分の性格にあわせて私に呼応してくれるのです。そこから私の木にさせたいことと木の素性とのセッションが始まります。木を削り始めるときこうしたいって思い描くところはもちろんあるんですけどその先どうなるのかは私にもわかりません。ただ、それが結果的にどうなったとしてもなるべくその気に対して私の意志を持つように心がけています。そうしないと木に叱られそうな気になるからです。

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